2008年4月21日月曜日

生きているのか死んでいるのかわからない街。-Dongdaemun


 韓国では、たたみ一畳以下のスペース、スーツケース一つで商売ができる。
十数匹の魚、笊数個で商売をするお婆さんは東大門や南大門でよく見かけるし、スーツケース一つで1個百円程度のもの(手帳、健康食品、ガム、CDなど)を大声でセールストークをして売る人を地下鉄でよく見かける。(これは韓国人の人に聞くと悪しき風習で違反行為だが安いから買ってしまうと言っていた)
 また、韓国の市場や市街地はどこに行っても、露天商が歩道を占拠し、毎日が門前祭り状態だ。極めつけは、地下道の階段でも商売をしている。彼らはちゃんと許可を取って商売をしているのか、いつも疑問に思ってしまう。
 さて、今日は汚い街の代表格“東大門”の周りを散策したが、驚きの連続だった。
それは、塗装して綺麗に見せかけている中古家電、まがい物としか見えない骨董仏具、様々な食器類、たぶん使えないと思う埃の被ったラジオやカメラ、ちょっと着るのに躊躇してしまいそうな本当の古着、エロ物などなど、商売が成立すればなんでも何でも売っている市場がい~っぱいあったのだ。その市場の客層は、地元韓国人が多いのは勿論のこと、イスラム系の人も多く、なぜか彼らはしきりに携帯で電話をしていた。
 また、このように活気あるところを横道にそれてみると、建物は朽ち果てて、ひと気がなく、ハエが飛んでいる、臭い場所が多くあり、いったい何に使われているわからない建物がい~っぱいあった。生きているのか死んでいるのかわからない街。いったいこの街はなんなんだ?

2008年4月14日月曜日

ホットする場所 新世界百貨店(신세계 백화점)-Seongsu


 韓国でホットする場所は新世界百貨店(シンセゲ ペックァジョム)のデパ地下だ。
そこには、お菓子や調味料を陳列したコーナーがあり、日本でお馴染みのお菓子やインスタントラーメン、醤油・味噌などの調味料などが陳列してあり、何だか嬉しくなるのだ。
ロッテデパートや現代デパートにも日本の商品が置いてあるが、種類が少なく陳列演出が悪いため、あまり嬉しくならない。また、新世界百貨店はなんとなく日本のデパートの雰囲気と似ている(変にケバくなくシンプル)ので、嬉しくなるのだと思う。あと、新世界百貨店の本店は、元三越の京城(ソウル)店だったと言う歴史背景があるからかな。
 最近、自転車を購入し、近く(近くと言っても電車で4駅先の竹田駅)に新世界百貨店があること発見し、デパ地下探検をした。ミョンドンにある本店と同様、いや、それ以上によかった。その理由は、キッチン用品の種類が豊富だったからだ。(郊外店だからかな?)自分は料理はあまりしないが、なぜかキッチン用品を見るのが好きで、日本にいる時はデパートのキッチン用品売り場をブラブラしていた。またそこには、いつか買おうと考えていたKonstantin Grcicの「Chair-One(チェアワン)」も置いてあった。
 竹田駅の新世界百貨店はいつも行く店になりそうだ。
ちなみに、
1.昭和54年(1979)ロッテ百貨店の開業は高島屋が、
2.昭和57年(1982)新世界百貨店の新装開店は三越が、
3.昭和59年(1984)現代百貨店の開業は大丸が、
それぞれ全面支援して実現したそうです。

投稿写真は、もうすぐ新世界百貨店が完成するSeongsu駅近くJungnang川の土手の写真。

2008年4月13日日曜日

灯りの眼差し(등불의 시선)-Sinsa


 私の眼差しと光の語りかけ(眼差し)のベクトルが一致し、そして風景は光だけになり、私の視覚ゲシュタルト(Gestalt)が崩壊する。

2008年4月12日土曜日

なぜ争いがあるのだろう?-Yongsan


 チベット紛争と北京オリンピック問題、日中・日韓の靖国問題、イラク紛争・タリバン・・・・
争いなんて言う無駄なことやめて、みんな仲良くすればいいのに。。
 歴史的に見て、世の中は紛争が減少し、平和な世界への実現を目指しているにも関わらず、
今は争いの歴史的残骸が世の中を動かしている。そして城壁が核爆弾に変わっただけだ。
 でもよく考えると、人間以外の動物の世界では、今もなお弱肉強食の戦争状態で、これは絶対終わることはない。
 もし仮に、人間も含め動物の世界で戦争が無くなったらどうなるだろう?それは、“死”しかないですよね。だって、鷹がネズミを食べなかったら生きていけないから。つまり、何もできない、生きている意味が無くなることを意味する。そう考えた場合、争いとは生きている証なんだろうね。

 投稿されている写真は、戦争現場ではなく、620mの超高層ビルの建つ工事現場の龍山地域(Yongsan)です。龍山地域は、昔、日本家屋が建ち並んでいた場所で、現在も日本人の多い街、そしてソウルのアキバとして有名である。

2008年4月11日金曜日

Undergroundcycling-Sindaebang


 ソウルでは鉄道高架橋が少なく、ほとんどの電車が地下鉄となっている。今住んでいるブンダンと言う街もソウルの郊外でありながら、鉄道は地下鉄だ。
 昔、ソウルに来たときに高架橋のある鉄道(地下鉄2号線)に乗ったことを思い出し、都市部鉄道高架橋のいかにも東京的な風景に郷愁を感じたいがために、地下鉄2号線に乗った。
 ちょうど鉄道が地下から地上に上がるBongchen駅で降りてみた。そして、Bongchen駅から西へ歩いていくと、鉄道高架と道路高架が延々と川の上を通る場所に差し掛かった。
 川は、ほとんど水が流れてなく、住宅地から流れてくる排水の匂いのする汚い場所であるにもかかわらず、川の沿道に大きな公園があることから、高架下には公園を基点としたサイクリングロードが整備されていた。
 そしてその風景は、水の流れない汚い川の中に、道路のベクトル、鉄道のベクトル、川のベクトル、自転車に乗る人の流れのベクトルが一直線で束ねられ「都市のヘテロトピア」の様相を呈していた。

2008年4月10日木曜日

ロケット発射台(로켓 발사대)-Jongbak


 自分が東京で写真を撮っているときのスタイルの一つは電柱の写真だった。それで、ソウルでも同じスタイルの写真を撮り続けている。
 写真を撮っていて、まずはじめにソウルの電柱が東京の電柱と比べて凄く魅力的だ感じた。その理由は、電線が途中から切れて垂れ下がっている、電線が電柱のところで無意味に円状に何重にも束ねてある、電線の数がハンパじゃない、はっきり言って雑、そのランダムさとノイズ加減、無作意作性が絶妙であることだ。
 自分はその予想を裏切るような風景を見て、猛烈な電線撮影モードのスイッチが入り、ノイズ風景の視覚要素が体をめぐり極上の時間を味わう。
 
大竹伸朗『既にそこにあるもの』

 何か引っかかるものというのは常に自分の予想が裏切られた瞬間にやってくるらしい。 そんなわけで僕が積極的に探し求める音は,ノイズ・ミュージックと呼ばれるものが多いのだが,それらの音の共通点には,やはり「裏切り」が必ずある気がする。……

「作意」が良くないというのではない。ただそこには大きな罠があるように思えるのだ。
ノイズ系の音が好きなのは,自分に作意が入り込もうとする余地を断ち切り,くだらない思考回路を麻痺させ,同時進行のそれぞれの地点が始まりでありそして終わりであるように感じさせてくれる「受信機」に自分を変化させてくれるからだ。 それがうまく行くと,スタート地点では予想もつかなかった遠い場所に自分が連れていかれ,こんなはずじゃなかったとあわてふためく結果に導く極上の触媒になってくれる。

無名のアーティストが住む街-Guro


 今自分が滞在している韓国の会社のスタッフに、汚い街はどこですかと聞いたところ、ソウル市内南西部のGUROと言う街を教えてくれた。そして、その街は古くからの工業地帯で、町工場が建ち並んでいるとの話を聞き、さっそく行ってみた。
 GUROは、工業製品の部品の工場が建ち並び、日本と同様に外国人労働者がちらほら見られた。汚く汚れ錆びたたトタン、金属の破片とオイルのにおい、崩れかけた壁、穴の開いた壁、壁から出ている意味不明なホース、古びたエアコンの室外機、窓に無理やり付けられた換気扇など資本主義の残骸と思われるもの宝庫であった。そして、自分はそれらが、無名のアーティストが作った作品のように輝いて見えた。

deoreo-un-geori(더러운 거리)-Dongdaemun


deoreo-un-geor(더러운 거리)とは、韓国語で汚い街を意味します。
 自分は今まで東京の街の写真を撮ってきましたが、自分なりに結論が出てしまい先が見えない状況になっていた。そして、今自分は会社の関係で韓国に滞在しており、これを機会に、新しい展開をしたいと考えこのブログを立ち上げました。

 めまぐるしく変化するソウル市内のいかにもごみごみしている部分を観察して、そこに「抽象化された理性」ではとらえ切れない“もの”や、常識的なまなざしのもとでは、まったくのナンセンスしか見えないものを見出し、自分が発見した、どうしようもない資本主義の残骸=ガラクタのスクラップ帳のような観察ノートを残したいと考えております。

2008年4月7日月曜日

はじめに:過去を見つめるということ。

 夜空を見つめると遠くに星が見えるが、それは、その星からあなたへと届いている光のおかげなのだ。だだし、光がここまでたどり着くには時間がかかるから、あなたが見つめているのは遥か昔の星の姿ということになる。その時間の長さは、光が私達のところに届くまでどれだけかかったかによるわけだから、星が遠くにあればあるほど、昔を見ていることにもなる。そこで、例えば6千年前の星を見ているとして、その星にいる誰かが私達を見ているとしたら、彼らも6千年前の私達を見てることになる。となると、この両者のどちらが“今”なのだろうか?このように、時間と空間はお互いに結びついていて、空間を見つめるということは、即ち過去を見つめていることにもなるのだ。(フランク・クローズ教授、ヨーロッパ粒子物理学研究機構)
 フランク・クローズ教授の話の観点とは違うが、私は空間を見つめることがとても好きだ。特に東京の空間。グチャグチャな道、ガチャガチャな区画が、いつの間にかビルになったり、道路になったり、公園になったり。すでに碁盤の目状に整備された名古屋、大阪、札幌では見ることができない現象が見られるのである。グチャグチャな道とガチャガチャな区画という空間には歴史という時間が刻まれていて、開発による空間と歴史(時間)の変化を見ることができる。 よくぶらっと、カメラを片手に出かける。地図はあまり見ないことにしている。それは意外性がなくなってしまうから。迷い、驚き、発見を期待したいから。。。。