2008年10月29日水曜日

捩れた心(마음)

自分で考え、自分で判断しなくちゃいけない。
でも、自分は万能でなく、神でもない。
何かにこの不安を委ねないと生きていけない。
自己責任の名のもとに、社会秩序が崩れ、社会と心が砂漠化する。
どこまで行っても砂漠、砂漠、砂漠。変化の無い風景。
人々は、砂漠が波紋をつくるように、風だけに流されて生きている。

私は消費都市のノイズ、ガラクタの写真を撮り、その刺激に不安な心を委ね、心の自然を取り戻している。

市場のハタラキモノ達(시장)

可楽市場(garak market)で仕事の出番を待つハタラキモノ達。日本の市場では、ターレットと言う名前の可愛らしいハタラキモノが大活躍しているが、韓国ではリヤカーです。

2008年10月28日火曜日

韓国経済(구름)

ウォン安で、いま大変やばい状態。いま働いている会社、大丈夫だろうか。不安だ。
昨日の散歩の途中、そんな不安を暗示しているような奇妙なクラゲ雲が浮いてました。

2008年10月27日月曜日

犬肉(개고기)市場

今日は、ソウル市北東部の地下鉄6号線月谷(Wolgok)駅付近を散歩。歩道を歩いていたら、いきなり歩道がトンネルになっていて入ってみたら誰もいない市場だった。天井に吊ってある看板を見たら犬肉(ケコギ)と書いてあったので犬肉(ケコギ)市場らしい。自分はまだ1回しか犬肉を食べたことがない。犬肉は、生きた犬をよく叩くと美味しいらしいです。

無題


2008年10月18日土曜日

磁場

“本来の自然”とはどういうものかイメージできなくなっている「私たち」が、「貨幣」と「技術」を介して“自然”にアクセスしようとすれば、よけいに自然から「疎外」されるのは当然のことであるが、洗練された美的な表象装置によって、ファンタスマゴリーの磁場のなかに人々をからめとってしまう大都市の商品世界は、その矛盾を忘れさせ、さらなる「自然回帰願望」を駆り立てる。仲正昌樹、『デリダの遺言』

2008年10月13日月曜日

韓国の市場はガラクタ小屋その2

人通りの多い場所の様子の写真。一見きれいだが、90度振り返ると、店の奥の棚は、ゴミ棚。

2008年10月12日日曜日

韓国の市場はガラクタ小屋


 普通、日本人なら“市場”と聞いたら、威勢のいいおじさんが「安いよ~!新鮮だよ~!」という言葉が飛び交う賑やかな風景が目に浮かんでくると思う。また、韓国に来た経験のある人なら、南大門や東大門で安いものが模造さに並べられ、圧倒されたことを思い出すと思う。
 しかし、私が何箇所か行ったソウルの市場は様子が違っていた。人通りの多い場所は賑やかで良いのだが、一歩中に入ると不思議な光景を目にすることができる。
整理するとこうだ。
 ・建物は老化したバラック小屋の集合体。
 ・内部の通路は迷宮のような細い路地。
 ・ゴミの物置場と化している空き店舗が多い。
 ・人通りは少ないが、色々な日用品が販売されている。
 ・店員が店の奥で寝ている。寝ているのは老人が多い。
 ・いろんなものの片付けがなされていなく、清潔感がない。
 ・売っているものが新鮮なのかわからない。
 ・設備が古く、埃、油が堆積していて黒い。

 生き生きした印象が一切なく、半分死にかけたような、時代に取り残されたような空間、でも、それらのノイズが私を陶酔させ、次の市場探しをはじめてしまうのだ。
 住民はひとしなみに、“流民”であり、棟割長屋も、“作業用の仮小屋”にすぎないはずだ。実はこの点にこそ、スラム化現象をめぐる今日的な回答が隠されている。……仮小屋ならきれいにする必要もなく、広くする必要もないが、やがて人々はそこからの脱却が不可能なことを思いしらされるようになった。紀田順一郎『東京の下層社会』

 写真は犬の市場で有名なモラン市場から東側へ行った新興駅近くの市場の写真。

2008年10月9日木曜日

よろこんで貧しくなること(조건)

 神の言葉は、人間が生きていくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に、人間が生きるためにぜひとも必要な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつがえしたのではなく、かえって、それがくつがえしえない強固な条件であることを認めたのである。吉本隆明、長原豊『現代思想』

 いくら私たちが人を助けようとも、食べること(強固な条件)をせずにはできない。世の中が便利になることとは、食べることが容易いこと。私たちは、便利と言うシステムの上になりたっている。この流れを止めることはできない。その流れを止めるには、世界的な強行なゲシュタルト・チェンジ(よろこんで貧しくなること)なしにはできない。
 無宗教の韓国人に韓国のキリスト教はどうですかと聞くと、『リッチマンの集団だ』との答えが帰ってくる。韓国では、ゲシュタルト・チェンジをしない人達がキリスト教を信じているのであるろうか。

2008年10月8日水曜日

ネット空間(Net 공간)

私は仮想空間で裸にされ、そして、現実空間で裸になる。
文字が聞こえない音になり、虚像が見えない実像になり、
仮想と現実のコントラストがなくなっていく。
そして、仮想の私が真実なのか、実像の私が真実なのか区別がつかなくなり、自分の存在がネット空間のエーテルの一部となる。

今、韓国では芸能人の自殺者が多いようだ。

2008年10月7日火曜日

イスラム教は寛容な宗教(이슬람)

先日の日曜日、あるプロテスタントの30周年のイベントに参加してきた。
参加した理由は、韓国で日本人や日本語を喋れる友達を作るため、なぜ韓国でキリスト教徒が多いか疑問を持っているため、宗教とは人にとってどうあるべきか勉強するために、日本語礼拝に通っているからだ。
さて、このイベントが終了し、プロテスタントである友人にイスラム教の印象をちょっと聞いてみると、イスラム教は悪い宗教であると言い、その思想を全否定していた。
自分は何冊かイスラム社会やタリバン関連の本を読んでいて、昨今問題となっているイスラム世界における原理主義的思想の多くは、西洋のキリスト教文明や資本主義、あるいは、アメリカの軍事的支配等に対する対抗意識として、イスラム側から湧き出てきたもので、原因は西洋側だと考えている。
私は、友人の言葉にキリスト教の非寛容さと、宗教の恐ろしさを感じた。

写真はイベントが行われた総合運動場の近く、Sincheonの繁華街。この写真の後ろはモーテル街。ソウルはモーテルが非常に多く、駅前に堂々とある街もある。 寛容な街、ソウル。。

2008年10月5日日曜日

回転運動(자전거)

自転車の魅力は、あの軽快な回転運動にある。足の筋肉でペダルをこぐと、その動力がタイヤを回し、回転が移動に変換され、心地よい風と風景の変化を楽しむことができる。
最近よく不快感を感じることがあるのだが、それは人間の使う機械“道具”に、回転運動や反復運動が少なくなっていることだ。
例としては、カメラや携帯がタッチセンサー化し、ボタンのクリック感、ダイヤルのグリグリ感がなくなってきていることだが、触っただけで、振動反応なしで物事が先に進行する感覚に戸惑いを感じるとともに、道具が面白くないものになっていくように感じられる。
この先、タッチセンサーなどのハイテクにより、身体の感覚や感受性が低下し、逆に忘れかけた感覚を呼び戻す過剰なコントラストや刺激を好む身体になっていくのだろうか?
もし、自転車にハイテクサスペンションが設置されて、地面からの振動がいっさい伝わらないことになったとき、自転車というものが全然面白くなくなってしまうだろう。

写真は、ソウルの街中でよく見られる自転車。彼は非常に働き者である。