2009年6月30日火曜日

信じるということ。

宗教を、人としての生き方つまり人間学として捉えるならば、信じて良いのだが、一番の壁は“神が存在すると言うこと”だ。洗礼を受けたクリスチャンは、神の存在を感じると言うが、目に見えないものをどうやって信じることができるのだろうか?

神は愛。しかし、人間の愛には限界がある。だからあえて神を信じなくてはならないのか?

2009年6月28日日曜日

ファミレス・ファシズム

鳴り響く入店ブザーと注文ブザー。
広い店舗に二人だけのスタッフ(店長とアルバイト)。
人のわがままに振舞わされる毎日と経費削減。
そこに働きがいがあるのだろうか?

最近のコメディは馬鹿を売り物にしている。
その彼らが馬鹿馬鹿しい毎日を馬鹿で楽しんでいる姿が見える。

そんなこと考えながらファミレスでご飯食べているので、最近ファミレスのご飯がおいしくない。

私たちは現在、共通の生活空間に生きる「住民」としてではなく、また、自治空間を担う「市民」としてでなく、消費空間を愉しむ「消費者」としての立場を急速に強めている。「場所」論、丸山一

2009年6月27日土曜日

グロ・デジタル・コンプレックス散歩

久々にグロ・デジタル・コンプレックス駅下を散歩した。

この駅は川の上にあるため、高架構造になっていて、
高架下は、自転車道が整備されて市民の憩いの場となっている。

そして、ここでは、水辺に映りこむ下界の幻想的な風景を見ることができる。

2009年6月19日金曜日

麻布の電気メーター

就労ビザの取得のために一時日本へ帰国。
韓国大使館のある麻布で見つけた電気メーター。

レトロで、ちっさな宇宙人ぽいデザインがグット。
奥に見える帽子の無いタイプは、新型改良タイプで帽子を不要としない。

2009年6月10日水曜日

テクノロジーに魅了されていく心

なぜ人間は、飽きずにテクノロジーや機械に魅了されているのか。
あるものを創造する方向を示しているのか。
それはロボットか。
それは、おのれ自身の機能拡張した存在か。

足である車は私の一部になった。眼であるカメラも私の一部になった。
心であるコンピュータは今絶えず私と対話し、私の一部になろうとしている。
最後に残ったもの。
それは、それらを創った手だ。
そして、“手である何々は、、、、、私の一部”と考えたとき。
何か心の中に気持ち悪い感覚が生じた。

猿を人間にしたもの。それは、足でもなく、眼でもなく、脳でもなく、常に目の前に存在しているこの手だ。手は私の一部になった車、カメラ、コンピュータを操作する。
手が何かで私の一部になるとき、それは私の一部になった完全なロボットが完成したときかもしれない。
そのとき、私の存在価値はどうなるのだろうか。
何か心の中に気持ち悪い感覚が生じた。

2009年6月9日火曜日

ガラクタ・ファッション

人間とは逆に、破壊された空間が、僕のオアシスなんだよ。
一面に広がるガラクタの山を求めて、僕は歩き続けている。
人類が豊かで便利になればなるほど、僕の仕事が増えるんだ。

今日のファッションのテーマは、“風水火”
どうだ!かっこいいだろ!
扇風機、シンク、ガスレンジのコラボファッション。

写真はガラクタ市場で洋服を買って自分のファッションを自慢しているリヤカー君。

2009年6月8日月曜日

安易に支持を得る方法

分かりやすくて説得力のある二元論(本当は矛盾)、恐怖心をあおること(9.11以来の流行)、世の中の今を創った大人への批判(共感世代への共感)。
日本に新しい宗教政党の出現を予感していたが、こんなに早く現れるとは。
日本を含め、なんか世の中がおかしくなってきている。

2009年6月5日金曜日

ヨンチョン市場の換気獣

家の壁から45度ぐらいの角度で突き出てきた換気獣。

最近、なぜ換気獣が好きなのか気になるのか、その原点について考えてみた。

生きているような建築。
成長しているような建築。
生物が宿っているような建築。

小さい時、サントリー・ローヤルのCMで衝撃を受けた建築家、ガウディが好きだからかもしれない。
そして、彼の建築には換気獣がいる。

2009年6月4日木曜日

電子情報空間の風景

外部空間には、空間に方向性を与え、自分の位置を認識できるランドマークとなる山や建物、川が存在する。つまり、空間認識を粗視化できる要素があるということだ。
一方、電子情報空間には、空間認識を粗視化できる要素がため、必然的に「検索」を必要とする。
しかし、「検索」の結果は、微視化された無数の断片を見るだけであるため、結局電子情報空間を認識することはできない。

私たちは、電子通信が無数に走る砂漠のような空間で、無数の検索機械が同じ色の砂を集めている風景を見ながら、オアシスを探しコミュニケーションをしている遊牧民(ノマド)なのだ。

2009年6月1日月曜日

「反電子主義の美学」

感覚はすべて、やがて電子の明減に置換される。そのとき、世界を支配するのはこれまで経験したこともない冷徹(COOL)に違いない。人間は、自分自身を語ることを止め、自分自身が生み出したものについて語ることで自足する。そしてつまり、人間は自分自身を生きることを止め、自分自身が生み出したものが生きることによってその欲望を満たす。わたしたちは、そうした傾向の加速から、身をひくことができないでいる。そればかりか、数多くの言説は、より強力にそこへと誘惑する。機械が文字通り機械だった時代、その本性を包み隠すために流線型が一時期成功したことを考えれば、私たちは現在、電子情報テクノロジーの流線型とも言うべき時期を経験しているのかもしれない。わたしたちは、その美学に眼を奪われている。「反電子主義の美学」杉田敦

「自身が生み出したものについて語ることで自足する」とは、ブログだと私は思う。確かに、それが生きること(繋がる)によって欲望を満たしている。
「電子情報テクノロジーの流線型」とは、ミクシーに代表されるSNSだと私は思う。確かに、現代人はその美学に眼を奪われている。

しかし、その美学は、デリートボタン一つで簡単に消すことができる。

「反電子主義の美学」。この本は、ある人との出会いで見つけた本だ。
出会いから生まれる発見ほど素晴らしいものはないと私は思う。
「検索」「SNS」などからの出会いも良いが、素晴らしいと思わない。

それは、その出会いがデリートボタン一つで簡単に消すことができるからだ。

追記
「電子情報テクノロジーの流線型」、空間認識を粗視化し、映像に対するノイズや問題意識を無くしてしまったコンピュータグラフィックもありましたね。