宗教を、人としての生き方つまり人間学として捉えるならば、信じて良いのだが、一番の壁は“神が存在すると言うこと”だ。洗礼を受けたクリスチャンは、神の存在を感じると言うが、目に見えないものをどうやって信じることができるのだろうか?
神は愛。しかし、人間の愛には限界がある。だからあえて神を信じなくてはならないのか?
2009年6月30日火曜日
2009年6月28日日曜日
ファミレス・ファシズム
2009年6月27日土曜日
グロ・デジタル・コンプレックス散歩
2009年6月19日金曜日
2009年6月10日水曜日
テクノロジーに魅了されていく心
なぜ人間は、飽きずにテクノロジーや機械に魅了されているのか。
あるものを創造する方向を示しているのか。
それはロボットか。
それは、おのれ自身の機能拡張した存在か。
足である車は私の一部になった。眼であるカメラも私の一部になった。
心であるコンピュータは今絶えず私と対話し、私の一部になろうとしている。
最後に残ったもの。
それは、それらを創った手だ。
そして、“手である何々は、、、、、私の一部”と考えたとき。
何か心の中に気持ち悪い感覚が生じた。
猿を人間にしたもの。それは、足でもなく、眼でもなく、脳でもなく、常に目の前に存在しているこの手だ。手は私の一部になった車、カメラ、コンピュータを操作する。
手が何かで私の一部になるとき、それは私の一部になった完全なロボットが完成したときかもしれない。
そのとき、私の存在価値はどうなるのだろうか。
何か心の中に気持ち悪い感覚が生じた。
あるものを創造する方向を示しているのか。
それはロボットか。
それは、おのれ自身の機能拡張した存在か。
足である車は私の一部になった。眼であるカメラも私の一部になった。
心であるコンピュータは今絶えず私と対話し、私の一部になろうとしている。
最後に残ったもの。
それは、それらを創った手だ。
そして、“手である何々は、、、、、私の一部”と考えたとき。
何か心の中に気持ち悪い感覚が生じた。
猿を人間にしたもの。それは、足でもなく、眼でもなく、脳でもなく、常に目の前に存在しているこの手だ。手は私の一部になった車、カメラ、コンピュータを操作する。
手が何かで私の一部になるとき、それは私の一部になった完全なロボットが完成したときかもしれない。
そのとき、私の存在価値はどうなるのだろうか。
何か心の中に気持ち悪い感覚が生じた。
2009年6月9日火曜日
ガラクタ・ファッション
2009年6月8日月曜日
安易に支持を得る方法
2009年6月5日金曜日
ヨンチョン市場の換気獣
2009年6月4日木曜日
電子情報空間の風景
2009年6月1日月曜日
「反電子主義の美学」
感覚はすべて、やがて電子の明減に置換される。そのとき、世界を支配するのはこれまで経験したこともない冷徹(COOL)に違いない。人間は、自分自身を語ることを止め、自分自身が生み出したものについて語ることで自足する。そしてつまり、人間は自分自身を生きることを止め、自分自身が生み出したものが生きることによってその欲望を満たす。わたしたちは、そうした傾向の加速から、身をひくことができないでいる。そればかりか、数多くの言説は、より強力にそこへと誘惑する。機械が文字通り機械だった時代、その本性を包み隠すために流線型が一時期成功したことを考えれば、私たちは現在、電子情報テクノロジーの流線型とも言うべき時期を経験しているのかもしれない。わたしたちは、その美学に眼を奪われている。「反電子主義の美学」杉田敦
「自身が生み出したものについて語ることで自足する」とは、ブログだと私は思う。確かに、それが生きること(繋がる)によって欲望を満たしている。
「電子情報テクノロジーの流線型」とは、ミクシーに代表されるSNSだと私は思う。確かに、現代人はその美学に眼を奪われている。
しかし、その美学は、デリートボタン一つで簡単に消すことができる。
「反電子主義の美学」。この本は、ある人との出会いで見つけた本だ。
出会いから生まれる発見ほど素晴らしいものはないと私は思う。
「検索」「SNS」などからの出会いも良いが、素晴らしいと思わない。
それは、その出会いがデリートボタン一つで簡単に消すことができるからだ。
追記
「電子情報テクノロジーの流線型」、空間認識を粗視化し、映像に対するノイズや問題意識を無くしてしまったコンピュータグラフィックもありましたね。
「自身が生み出したものについて語ることで自足する」とは、ブログだと私は思う。確かに、それが生きること(繋がる)によって欲望を満たしている。
「電子情報テクノロジーの流線型」とは、ミクシーに代表されるSNSだと私は思う。確かに、現代人はその美学に眼を奪われている。
しかし、その美学は、デリートボタン一つで簡単に消すことができる。
「反電子主義の美学」。この本は、ある人との出会いで見つけた本だ。
出会いから生まれる発見ほど素晴らしいものはないと私は思う。
「検索」「SNS」などからの出会いも良いが、素晴らしいと思わない。
それは、その出会いがデリートボタン一つで簡単に消すことができるからだ。
追記
「電子情報テクノロジーの流線型」、空間認識を粗視化し、映像に対するノイズや問題意識を無くしてしまったコンピュータグラフィックもありましたね。
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