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2010年11月1日月曜日

人影の無い街の人影の無いベランダの影

今週末、踏十里(ダプシプリ)と言うソウル市内の再開発を見に行ってきた。この開発区域には、人が住んでおらず、建物だけが壊されるときを待っていた。建物の窓やドアが全部壊され、人影や音がなく、所々に乞食のような人が隠れて住んでいる。
私は、この影の空間で、ささやかな音も動きも逃すまいとして緊張した。そして、森の中の狩人や獲物を捕らえようとする動物と同じような感覚を味わうことができた。

2010年9月26日日曜日

秋光-Autumn Light

やっと涼しい季節になりました。夕暮れ前の公園で佇む人達。幸せのひと時です。

2010年8月6日金曜日

Flower

パソコンまだ買ってない。ケータイをIphoneにしたからMacにしようかな?

2010年5月29日土曜日

心と光

ソウル市内で開催中のTokujin-Yoshioka展“SPECTRUM”に行って来ました。
 
視線は常にものごと(環境)への理解を求めている。
その理解を求める感覚が科学と芸術を創り出した。
科学は現視覚から生まれ、芸術は擬視覚から生まれた。
プリズムを私たちは科学を通して理解しているが、プリズムの芸術的表現を通して、現視覚と擬視覚が出会い、心と光が出会った。
そんなことを考えさせられました。
 
私たちの視線を線型に直進するものとみなせば、対象物の視覚像は並行する視線の束によって、対象物(像)が接触をうけて産み出された状態だと言えよう。これに対して、想像的な対象物のイメージ(像)は、視覚の束が対象物(像)に接触するのではなくて、対象のあらゆる場所にまったく等価に透過して産み出された擬視覚像にあたっている。『ハイ・イメージ論』吉本隆明

2010年5月17日月曜日

光をつかむ階段


都会の中の名もない隙間に流れ落ちる光。
それをつかもうとしている名もない階段。

2010年5月12日水曜日

日本の自転車風景


以前日本で撮った写真。
場所は、大崎界隈。
日本でも韓国でも、自転車のある風景が好きだ。
木陰で佇む働く自転車くんとママチャリさん。
人間の感覚に一番密着した優しい乗り物。

2010年5月9日日曜日

光のsynapse


光が無いと行動ができない。
光が無いと形や色が分からない。
光が無いと創造性が生まれない。

光の反射は人間に刺激(情報)を与えるシナプスのようなものだ。

2010年4月26日月曜日

2010年4月25日日曜日

奉元寺探訪


自分の参加する空間塁(공간 루;クガンルー)カフェの春の撮影会に参加。
 
ソウル市内にある韓国仏教太古宗の総本山である奉元寺を探訪。
そして、寺内にある重要文化財に指定されている仏画家の話や作業場も見学。
写真は作業場裏の緑と光の勝手口。

2010年4月20日火曜日

言葉とイメージ



言葉は思考を支配してしまう。
山、川、風など。現象をあらわす言葉を、まったく違った表現で言えないだろうか?
言葉でなく、見たまんま、感じたままで表現できないだろうか?
表現できるとしたら、その言葉(声)は感覚と現象が素直にリンクしている赤ちゃんの発する言葉に近いであろう。しかし、やろうとしても、なかなか難しい。でも、思ってもいなかった想像や発想を膨らますことができる。たとえば、川であったら、水の流れる音とはどんなものがあるか想像するとミジミジミジ、ミジョミジョミジョ、ピチピチピチ、ビチャ、ビチョン。川は感じたままで言うとミジミジと言う言葉がいいなとか、だから、水はミズなのか~とか。

では、自分が好きな写真はどうか?
たとえば、抽象的な写真は、名付けえない、なにものかであってなにものでもない言葉にならないイメージを伝えることができる。見た人が感じたまんま感じた世界を感じることができる面白さを味わうことができる。その未知なる可能性が面白いのだ。
言葉も写真を見る感覚と同じように、別の方向で再考すると新しい可能性が生まれるかもしれない。

2010年3月15日月曜日

Spring Light 幻想光

写真展示会場の駐車場で、偶然のように顔を出した春の幻想光。

2010年2月6日土曜日

2009年11月23日月曜日