2009年2月11日水曜日

人って何?

 ネット社会では、テクストだけで、壁を越えることのできないコミュニケーション。
本当は何を考えているか分からない不気味な“足跡”と“共感するキーワード”をだけでコミュニケーションするSNS。ネット・コミュニティーは、多種多様で雑多なリゾームが増殖するだけで、その中では、私と言う記号でしか存在しない。
 そして、私たちはコミュニケーションのための『記号』になっていく。

 消費社会では、新しい発想のモノがどんどん作られ、毎日、毎日が新しいモノのコマーシャルの嵐で、人はどこまでいっても完全に欲求が満たされなくなり。
企業は先を越されまいとして必死にグローバル化し、どっかの国が、不況になれば、たちまち雇用調整だ。
 そして、私たちは消費社会のための『道具』になっていく。

 都市社会では、新しい美術館・博物館・歴史資料館が建ち、感性を磨くはずの芸術・文化・歴史が「欲望の消費」になり、祭はどこでも“よさこいソーラン節”。新しい発想は無く、既存の発想の再解釈のみで、巨大な組織によって意図的に“作られた空間(テーマパークなど)”が増殖。
 そして私たち、作られた空間のための『人形』になっていく。

 なんでこんなに落ち着かない社会になってしまったのだろうか?この閉塞感は何なんだろうか?この先どうなるんだろうか?

 話はちと変わるが今私が住んでいる韓国はもっと深刻だ。
現在、高速道路と街路のデザインの仕事をしているが、今日私の心に衝撃が走った。
高速道路を作るは、インフラとしてしかたがない場合があるが、その沿道地域のニュータウン計画がひどすぎる。
 内容はこうだ。
 某韓国2番目の海洋都市の市街地化された場所にニュータウンが計画されている。そこは海に近く地域のシンボルとなっている緑豊かな山があり、その山腹に慎ましく普通の人々が生活を営んでいる。山腹であるため眺めもよく、坂道と狭い道が交錯し、日本の尾道のような場所となっている。そこに住んでいる人々は、条件の悪い斜面の土地を買い、子供を生み・育て、将来の豊かな生活を望んで一生懸命働いている。しかし、その場所一体が、ニュータウン計画によりリッチマンのための街になってしまうのだ。今住んでいる人々は立ち退きを命じられ、安い慰謝料を貰い、新天地を見つける必要があるのだ。
 これは、排除される側から見れば単なる暴力ではないか。愛した土地、愛した風景、愛した近所の人々がばらばらになり、緑豊かな山も高層マンションで見られたもんじゃない景観になってしまうのだ。韓国の経済活性化を最良とする都市づくりにもはやコメントする意味がない。自分が今までソウルで見てきたニュータウン計画地がすべてこうであったら非常に悲しい。
 
 写真は、地下鉄2号線舎堂(サダン)駅近くの市場。消費社会はこの程度が丁度良いと、この頃感じています。家族、会話、人ごみ、散歩、生活に必要なものだけの商品。韓国には市場がまだいっぱい残っています。市場にいると幸せを感じます。

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