2009年7月30日木曜日

柱(世宗文化会館)

“カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。
その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間の代わりに、
無意識に浸透された空間が出現することになる。”
 
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」

2009年7月27日月曜日

楽しい機械村(乙支路工場地帯)



裸で懸命に働くミニ鉄工所の若者。
屋外トイレ。
渦巻くホース達。
 
ここ乙支路工場地帯は、突然の出会いがある迷路のような街。テーマパークのように作られ仕掛けられた出会いよりもリアルに楽しめる。


2009年7月21日火曜日

機械村の機械

Steampunkな郵便ポスト?ゴミ箱?

ソウルの中心地、乙支路3街には街工場があり、そこでは機械の部品がゴロゴロ無造作に置いてあって、街全体がSteampunkな感じが漂っている。

2009年7月19日日曜日

叫び

わたしは外界の無機的な自然物を見ているのと同じように、わたしの〈身体〉を見ている。このとき、わたしの〈心〉は、外界の無機的な自然物と、わたしの〈身体〉という有機的な自然物からと共通に抽出され、疎外された幻想領域を保存している。「心的現象論序説」吉本隆明

2009年7月16日木曜日

視線の欲望

自動車は、視線の欲望の高純度の結晶である。…視線の欲望は、…満たされた途端にそれは次なる欲望に転化する。十二分に欲望を満たしてくれる刺激の寿命は驚くべき短さである。…欲望する視線は「いま・ここ」を殺すために機能している。「反電子主義の美学」杉田敦

2009年7月15日水曜日

自動車のチャームポイント

最近梅雨で雨が多い。今日は会社の前を流れているタン川の水嵩が高水敷以上まで増し、フェンスが倒れたり、ゴミが色々流れて大変な状況だった。

さて、本題の「自動車のチャームポイント」とは、雨の時に見ることができる車のワイパーの動きのことだ。
交差点などで車が渋滞しているとき、そこでワイパーの演奏会が行われている。
みんな一斉に、あの車らしからぬ反復運動。実にかわいい。

以前自分は、一本ワイパーの幌付屋根の自動車に乗っていたことがある。
この車、雨が降るとオーケストラの演奏が始まる。

“幌に叩き付く雨の演奏と、一本だけできびきび動く指揮者の姿”

普通なら、うっとうしいと思われる光景だが、そこでは、自然と人間の感覚が融合し、機械と人間の同等関係を感じることができる。

2009年7月14日火曜日

感触の欲求不満

クラカメ(古いカメラ)をファッションで身に着ける若者が多い。
この現象。カッコイイから身に着けていることもあるが、そこに手の感触の欲求不満が隠されているのではないかと考えている。
手の感触の欲求不満の原因はi-podなどのタッチタイプのユーザーインターフェイス。
あれ使ってて、何か奇妙な感じがするのだ。
手が覚えている感覚と画面の動きに感覚の微妙な違いがあり、正直、感触の欲求不満が生じてしまう。
一方、クラカメ。あのガチャガチャいじってる感触。手が覚えている感覚と機械の動きに違いが感じられない。実に楽しく、心地いい。たぶん、クラカメをファッションで身に着ける若者。その感触をおもちゃをいじるように味わっているかもしれない。
よく、会話している時に、折りたたみ型の携帯を閉じたり開いたりすることがある、それも同じ感覚だと思う。

インタラクティブと言う言葉がある。双方的な機械との対話。
そのようなテクノロジーの環境化がどんどん進み、さらなる感触の欲求不満現象が、新たな現象を生むかもしれない。

2009年7月13日月曜日

Plofessor

先日投稿した東海(日本海)ツアーの参加者である韓国外国語大学校教授。
最後の撮影ポイントである羊公園で何かに思いを馳せている雰囲気がとても印象的だった。
 
彼は、GR-Dのコンパクトさに関心を示し、次のカメラの候補にしたいと言っていた。
韓国では、一眼レフ所有率が高く、コンパクトカメラにはあまり関心がない。
GR-Dを見せても小さくてかわいいねと言われて終わりである。

2009年7月12日日曜日

東海(日本海)



カフェ・ネイバー(cafe.naver.com/spacelou.cafe)の写真家の集まりで、冬ソナの撮影現場にもなった春川ぞいを通り、ソラク山を見学し、東海(日本海)に行ってきた。韓国の大自然を満喫し、おいしいお魚も食べ、充実した一日であった。
ちょっと写真の題名を考えてみた。
 
写真‐1(上):境界線と心
写真‐2(中):見えない心
写真‐3(下):覗き合う女心
 
最後の写真の右側のかたが主催者である女流写真家Cho in sookさん。
(?なぜかブログで写真UPすると、うす青い線が入ってしまいます。Cho さんすいません)

2009年7月10日金曜日

Atopia

人間の創り出した技術、科学、文化が現実を壊していく。
そして、場所が記憶だけで構成されたもの(テーマパーク)になっていく。

そして、人々は虚構の世界を楽しむようになる。

最近、日本ではアニメで町興しを行っている自治体が増えてきた。
今、人々は虚構の世界を楽しむようになってきている。

空間の過剰流動性は、立場や顔の解離を進める。流動性の高まりを放置して置けば、解離性を帯びた人格が作りあげられるのは必死である。……そうならば自らコントロールして分裂した空間を統合していく以外に、この問題を回避する方法を見出せないだろう。……いずれにせよ私たちは、空間と新しいつきあいをはじめなければならない。「場所」論、丸山一

2009年7月8日水曜日

スピリチュアルを信じている人達

結局のところ、人間は本能で生きている。いくら理性がどうのこうの言っても、それは本能を正当化する“道具”として使われる。
まったく本能と言うものは、厄介で不明慮なものなのだ。

ある人が言った。人が高みに登りつめたときに神を感じると。
芸術家、スポーツ選手、宇宙飛行士、物理学者。
彼らは、だれも見たことのない瞬間を見ることができる。

たぶん、その瞬間とは、言葉がなく、物質感がなく、ただ激しい光のような感覚だと思う。
そしてそれは、本能がどうしていいのか分からなくなる感覚だと思う。

人間以外の動物は明るすぎる光に弱い。それは、光には音(言葉)がなく、物質感がないからだ。動物は神の存在を知らない。だから、動物が感じるのは“ただの恐れ”だ。

つまり、人が高みに登りつめたときに神を感じるということは、激しい光のような感覚と自分の理解している存在以上の自分の存在に対するただの“本能の恐れ”だと思う。

しかし、キリスト教信者はよく言う。“奇跡が起きる”、“神は存在する”と。
その言葉は人間の純粋な“本能の恐れ”を正当化(都合よく分かりやすくしている)する“道具”として使われているだけにしか思われないのだ。

だから私はまだ、そんなスピリチュアルなことを信じることができない。

2009年7月7日火曜日

導き。

人はどんな人でも悩む。だから誰かに導いてほしいのか?

…何事も、何気なく可能であり、つまり能動性を必要としない。キリスト教が目標とする世界も同様である。そこは、完全に自由で、自在にすべてが可能である。しかし、それは無限の広がりを持つ能動性というよりは、能動性自体を無意味化する世界である。「反電子主義の美学」杉田敦