結局のところ、人間は本能で生きている。いくら理性がどうのこうの言っても、それは本能を正当化する“道具”として使われる。
まったく本能と言うものは、厄介で不明慮なものなのだ。
ある人が言った。人が高みに登りつめたときに神を感じると。
芸術家、スポーツ選手、宇宙飛行士、物理学者。
彼らは、だれも見たことのない瞬間を見ることができる。
たぶん、その瞬間とは、言葉がなく、物質感がなく、ただ激しい光のような感覚だと思う。
そしてそれは、本能がどうしていいのか分からなくなる感覚だと思う。
人間以外の動物は明るすぎる光に弱い。それは、光には音(言葉)がなく、物質感がないからだ。動物は神の存在を知らない。だから、動物が感じるのは“ただの恐れ”だ。
つまり、人が高みに登りつめたときに神を感じるということは、激しい光のような感覚と自分の理解している存在以上の自分の存在に対するただの“本能の恐れ”だと思う。
しかし、キリスト教信者はよく言う。“奇跡が起きる”、“神は存在する”と。
その言葉は人間の純粋な“本能の恐れ”を正当化(都合よく分かりやすくしている)する“道具”として使われているだけにしか思われないのだ。
だから私はまだ、そんなスピリチュアルなことを信じることができない。